まあこの記者の論理は最近の世間の論調の典型例ですけど.なんで,こんな堂々巡りになってしまうのかというと,「実名」vs.「匿名」という二者択一という問題にしているところに根本的な問題があるわけです.この背後には,前提として,「ネット以前の社会は実名社会で安寧であった」があって,それが「匿名をゆるすネット社会の出現」によって「安寧が脅かされている」という論理が裏にあるわけです.

でも「ネット以前の社会は実名社会で安寧であった」ってホント?そこに二つの誤りがあります.一つはそのもも,ネット以前の社会(アナログ社会)でも,多様なレベルが実名‐匿名の間にあり,我々は適宜,それを切り分けて生活しているということです.家にいる自分,会社にいる自分,通勤途上の自分,コンサート会場での自分,全部同じように自分の名前を掲げて生活しているわけではないですよね(自分の名前,IDつきのゼッケンを前後につけて,通勤電車に乗ったり,コンサートにいくことをイメージしてみてください.なにかおかしいでしょ).そういったアイデンティティの多様性は現代の生活では必須なものになっているわけです.そのような多様性を無視して,実名があたかも自然というはおかしな話なわけです.
もう一つ,「実名なら安寧」とういところも怪しい.日本でも,村から町へ,町から大都市になれば匿名性が高くなるわけです.戦後,多くの人が大都市にきて,大都市の匿名性にあるときは戸惑い,あるときは歓迎していたわけです(それがために都市へいくひとも).だから,一概に「実名なら安寧」「匿名なら不安」ということはないわけです.

この意味では,いま起っていることは,アナログ社会で起きていた社会における「実名‐匿名」の多様性がデジタル社会でも起っているに過ぎない.ただし,アナログ社会にくらべ,より多様な方法が提供されるようになった点は大きい.いままで実社会の束縛から離れられる人は少数であったが,いまは誰でもできるようになった.だからいろいろな場面で新しい衝突が起るのはしょうがないでしょう.

ではどんな風にデジタル社会で暮らしていけばいいのか.それはみなさんが現在模索中名わけです.個人レベルではブログがいい例で,ブログは実名で書く人もいれば,まった意味のない匿名だったり,あるいは仲間内でだけでわかるニックネームで書く人もいたりして,多様です.中身においても,微妙なコントロールをしていて,仲間内に知らせたいことは仲間内でしか分からないように符号化されてたりするわけです.あるいは掲示板などはそこでの仲間内での自浄作用みたいのがあったりします.

いずれしろ,「実名vs.匿名」の二者択一論理は危険で,上のようなアイデンティティの多様化は見えなくなってしまいます.

http://blog.goo.ne.jp/htakeda0000/m/200512より